2011年10月23日日曜日

アイデンティティ

真実の自分]からの続き


アイデンティティとは、話し手自身の帰属意識にほかならない。

話し手は、自らのアイデンティティを自分の周囲にある人や物などに結びつけて捉えることができる。しかし、アイデンティティは自らが主体的に意識しない限り、日常的な生活では無意識につくられていくものでしかない。この文脈の中でアイデンティティとは、あくまでも個人の帰属意識であって、他者が大勢の人の中から特定の誰かを見つけ出すような識別子になるようなものではないことに注意しておいて欲しい。

もっとも、言語は常に多義的である。だから、そもそも誰かに伝える必然のない帰属意識としての意味と、個人を識別する情報としての意味があることは否定しない。たとえば、後者の意味は、ネットワーク上のコンピュータにアクセスに用いられるIDのようなものを指している。IDの意味するidentityとは、すなわち、本人であることを証明できる情報である(注1)

しかし、これまでの文脈で扱ってきたアイデンティティは、IDのような概念とは本質的に異なっている。たしかに、IDはユーザを表わす記号であり、大勢の人の中から特定の誰かを見つけ出すような識別子として用いられている。そして、これまでに述べてきたアイデンティティと同様に、本人性(authenticity)を見極めようとする概念にほかならない。だからこそ、当然混同されやすい。

そこで、これらの概念の明確な違いを示しておこう。

帰属意識を目的とするアイデンティティは、個人の意識の中枢にある。それに対して、識別を目的とするアイデンティティは、多くの人が周知するパーソナリティ(人格)のような象徴的な意味を伴った表現であり、どちらかと言えば、文字よりも記号に近く、直示的で多くの人々の意識に現われる個人のイメージになる。このような捉え方で言えば、名前さえ、個人を表わす記号でしかない。名前には、そこに込められた意味を読み取ることも可能だけれど、直示的に本人と結びついた名称である。

もっとも、現代人の一般的な生活では、前者よりも後者のアイデンティティの方が馴染みがあるのかもしれない。

たとえば、ポリスの市民は、自身の「卓越」を誰かに示そうとする時、アイデンティティを意識的に明らかにしたいと欲する機会に恵まれた。つまり、他者の客観的な評価に曝された自分を再帰的に捉えられる[真実の自分]にこそアイデンティティの本質であり、そのようなことを意識できた人は、当時でさえ極めて少ない人だけの特権であった。前者のアイデンティティについての定義は、やや遠回しな表現にならざるをえない。しかし、[人間的な特質]というものは、孤独のなかでは判じようがなく、他者を意識しない限り判じようがないものである。しかしながら、そのような話し手自身のアイデンティティは、自分をほかの人や物に置き換えたりできないという点で、自分の存在が常に中心にある。

パーソナリティとは、聞き手が抱く話し手のイメージである。そして、そのようなパーソナリティとは、[ダイモンの幸福]で示したように、他者の目に現われた、その人が「よく生きる(エウ・ゼーン)」姿である。だからこそ、聞き手が感じているパーソナリティはダイモンのように表現できたり、感じたりできるのである。つまり、聞き手が感じるパーソナリティの本質は、聞き手自身の記憶が引証点になっている。そのため、聞き手の抱く思い込みは、その状況に応じて大きく左右され、同じ人のパーソナリティを表わす表現が、ばらついたものになる。

コンピュータのアクセスに使われるIDが奇妙な意味に思われるのは、ユーザ自身のことでありながら、他者が表現するパーソナリティであるかのように自分自身を言葉で表現して、その表現を固定させてしまうことにほかならない。だからこそ、IDを忘れることが起こりうるのだ。それは、他人を識別する情報であればこそすぐさま忘れてしまうし、また、次の瞬間に抱くイメージが過去に抱いたイメージと一致しない為に、明確なパーソナリティというものがつくられにくい。

……

アーレントは、芸術家の天才的で客観的な観察力と表現力が、本人性を見抜くことについて言及している。
しかし、いくら天才に敬意を払ったところで、ある人の「正体」はその人自身によっては物化できないという基本的事実を変えることはできなかった。確かにその「正体」が芸術作品のスタイルや普通の手稿の中に「客観的に」現われるとき、人格のアイデンティティは明らかにされ、したがって作者を確かめることには役立つ。p337
このような芸術家のスタイルを見いだすようことは可能だろうか?

ともかく、本人性(=アイデンティティの正体)を見抜くには、話し手と同じアイデンティティに関わりを持つことが不可欠である。つまり、理論的に整理してみると、話し手の記憶と同じ引証点を聞き手自身の記憶の中に見いだすことができる場合にのみ、聞き手の話し手に対する主観的な思い込みが、話し手自身の感じているアイデンティティと重なるようになるからだ。話し手と聞き手の間に、同じ記憶が存在し、それがそれぞれの引証点として一致すれば、話し手は、聞き手と同じ、その人の本質に触れることができるはずである。

とはいえ、このような離れ業ができるのは、愛する者だけである。愛する者は、愛する人の正体を見抜くことができる。それは、愛する人の言葉と行動がどのように一致するかを見届け、そのひとつひとつの結果に対する顛末を見届けようとする忍耐力に基づいている。つまり、愛する者の根気強さに比較すれば、僕たちは、たいした忍耐も無く、普段の生活の延長に他者を認識しようとしている。だから、僕たち自身が持ち合わせた程度の記憶に、他者がもつ固有の記憶を見つけ出すことはなかなかできないのである。

愛する者が、愛する人の為に積み上げてきたと言ってもおかしくない、特別で膨大な記憶を引証点にできることを考えれば、僕たちが他者に抱くパーソナリティは、その人のアイデンティティと奇跡的に重なることがあっても、その人の本人性を確信することとはまったく異なったものになる。つまり、このように考察してみれば自明なことなのだが、愛は献身的であり、忍耐がその本質であるとも思える。だからこそ、愛する人の存在が、愛する者のアイデンティティの中枢にあることを可能にする。それは偶然などではなく、生を共にするものに与えられる必然でしかない。

このような愛の力を十分に理解しないうちには、アイデンティティが、もっと物質的なものにも結びついていると考える人の意見を遠ざけることは難しいだろう。たしかに、アイデンティティは、誰かが作って、運び、そこに展示された物を選択できる程度の手軽さで得られるという考え方もある。ファッションや消費をアイデンティティとして見なすことが間違っているとは思わない。ただし、そのような手軽さで得られたアイデンティティは、自分の身近なところに常に置いておくことはできるけれど、自分の中心には置きようが無い。

……

このようなアイデンティティとパーソナリティの違いは、ヴァルター・ベンヤミンが指摘した「いま」「ここに」しかないというオリジナルの芸術作品と複製された芸術作品の違いに通底している(注2)。複製された芸術作品は、たしかに、それを所有することができ、自分の近くに置いておくことができるが、その芸術作品が置かれた空間そのものの中に自身を置くことができない。つまり、オリジナルの芸術作品は、それが置かれた空間やその空間が作られてからの時間的な経過を含めて、作品の誕生から物語が始まっている。

愛する人とは、その人の誕生から現在に至る物語と、その人とともに歩んでいく未来へ続く物語という、二つの物語を「点」として繋ぐ「いま」を共有している。それは、通行人が偶然通りがかった店のショーケースに置かれた商品に目を留めるような「点」としてある「いま」とは大きく異なる時間のあり方でもある。つまり、アウラを放つ芸術作品に対して「特価品」のような札を貼る行為に似ていて、自分自身を記号のように意味づけすることは、その場の思いつき程度の意味しか与えることはできない。また、貼り付けられた札も、作品自体の本質を表わすことなど到底ない。


物は、誰かによって作られ、誰かとの思い出の中に現われたりする物であることから、人から切り離して持ち運べてしまえる。そして、複製技術によって作られる物だけに限れば、別の複製品を代償とすることで、客観的には安定したアイデンティティを取り戻すことも可能にする。
それは、世界の物の「客観性」のゆえである。この観点から見ると、世界の物は、人間生活を安定させる機能を持っているといえる。なるほどヘラクレイトスは、人間は二度と同じ流れの中に入ることはできないといったし、人間の方も絶えず変化する。それにも関わらず、事実をいえば、人間は、同じ椅子、同じテーブルに結びつけられているのであって、それによって、その人間の同一性、すなわち、そのアイデンティティを取り戻すことができるのある。世界の物の「客観性」というのはこの事実にある。言い換えると、人間の主観性に対立しているのは、無垢の自然の荘厳な無関心ではなく、人工的世界の客観性なのである。p225
だからこそ、現代人にとってのアイデンティティは、人工的世界の「客観性」にもとづいて識別される、物の同一性、あるいは、差異性に集約されているように思われる時がある。コンピュータは、識別情報とともに外部記憶にさまざまな情報を保存することをもっぱらとしている。だから、自分の置かれた情報を与えて、そのような膨大な情報からある特定の情報を抽出することは可能である。しかし、それが本人性を見極めようとすることを目的としているならば、ただただ懐疑的にならざるをえない。

このような懐疑は、「人間は二度と同じ流れの中に入ることはできない」という指摘に通じている。つまり、椅子やテーブルのような物に識別情報を与えて外部記憶に保存することができても、「人間の方も絶えず変化する」ものであるために、人は、さまざまな人間関係の中で、絶えずさまざまな役割を変化させている。その為に、再現された状態というのは、その過去にあったオリジナルな状態を忠実に再現しているように見えたとしても、個人の記憶に、過去が既にあるという事実から完全な再現になりえない。もちろん、本人性を見極めようとするならば、その過去の時点から現在にいたるまでの関連するすべての情報を遡って、愛する人がするのと同じように、愛する者とただただ根気づよく時間を共にすることが大切ではないかと考える。

現代社会では、アイデンティティとは、多くの人びとから特定の個人を識別する為の情報を表わすように思われる。しかし、アイデンティティの本質は、個人のうちにある無意識な記憶が引証点になっている。そのことを前提にすれば、外部記憶にあるアイデンティティとは、パーソナリティのような一時的に貼られたラベルに過ぎない。

アーレントは、以下のような指摘を行なっている。
この人格の不変のアイデンティティは、活動と言論の中に現れるが、それは触知できないものである。触知できるようになるのは、活動者=言論者の生涯の物語においてのみである。つまり、触知できる実体として、そのアイデンティティが知られ、理解されるのは、ようやく物語が終わってからである。いいかえれば、人間の本質(エッセンス)が現れるのは、生命がただ物語を残して去るときだけである。ついでに言えば、人間の本質(エッセンス)というのは、人間本性一般(そのようなものは存在しない)のことでもなければ、個人の特質や欠点の総計でもなく、実にその人の「正体(フー)」のことである。p312
「人格の不変のアイデンティティ」とは、さまざまな人が各々に抱く、ある個人に対するパーソナリティが変化しないものになるには、その個人が死んだ状態にほかならない。生命過程として終了しなくても、社会から孤立した存在になれば、この状態になることができる。だから、その人のパーソナリティは、その人の死後をきっかけにして「物語」になることもできる。だからこそ、「理解されるのは、ようやく物語が終わってからである」とあると指摘している。

僕たちが欲しているのは、外部記憶化されたような「知識」を再現することではなく、随時更新が必要な他者への「意識」ではないかと思う。その為に、アーレントは「活動」が必要だといっていることを聞き逃してはならない(注3)


注1:ヴァルター・ベンヤミンは、芸術作品のアウラについて定義を行なっている。『複製技術時代の芸術』 p14
ここで失われてゆく物をアウラという概念でとらえ、複製技術のすすんだ時代の中でほろびてゆくものは作品のもつアウラである、といいかえてもよい。このプロセスこそ、まさしく現代の特徴なのだ。このプロセスの重要性は、単なる芸術の分野をはるかにこえている。一般的にいいあらわせば、複製技術は、複製の対象を伝統の領域からひきはなしてしまうのである。複製技術は、これまでの一回かぎりの作品のかわりに、同一の作品を大量に出現させるし、こうしてつくられた複製品をそれぞれ特殊な状況のもとにある受け手の方に近づけることによって、一種のアクチュアリティを生みだしている。
注2:崎村夏彦さんのブログには、マイクロソフトの元アイデンティティ・アーキテクト Kim Cameron が定義した「インターネット世界におけるアイデンティティの7つの基本原則」の概要が掲載されている。オリジナルは、以下のアドレスを参照のこと。
http://www.identityblog.com/stories/2005/05/13/TheLawsOfIdentity.pdf

注3:第五章「活動」の最初の頁には、以下のダンテの文章が引用されている。 p285
どんな活動においても、行為者がまず最初に意図することは、自分の姿を明らかにすることである。これは止むを得ず活動する場合でも、自分の意志から進んでする場合でも同じである。どんな行為でも、行為している限り、その行為に喜びを感じるのはその為である。どんな行為でも、行為している限り、その行為に喜びを感じるのはそのためである。というのも、存在するものは、すべて、あるがままの自分を望むからである。さらに、活動においては、行為者であることはいくらか拡張されるから、喜びは必然的にそれに従う……だから、活動が隠された自己を明らかにしないなら、いかなるものも活動しないだろう。 

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